美しさにであった日

2025.04.18

アキコが「この展覧会を見に行きたいの。」と教えてくれたのは、タピオ・ヴィルカラの回顧展。

ガラス細工が好きな彼女らしいなんて思っていて、私はこの人の名前も作品も実は知らなくて、失礼ながら東京駅の細部を見られるのならそれは素敵だ。くらいにしか思っていなかったのです。

当日はまだ春休み中だったチアキも連れて雨降りの中出掛けたのでした。チィはもうすぐアキコの背丈を超えそうですっかりお姉さんになってきたのだね。

なんて思いながら、東京駅の片翼にあるギャラリーに。通り過ぎたことはあったけれど、こうして古いレンガを間近で見たり、上の階に行けるなんてすてきだなあ、などと気軽な気持ちで入場したのでした。

ところがね、その展示に何というか気持ちが圧倒されてしまいました。

美しい作品たちはもちろん美しいのでしたが、展示の終盤、あの静寂と共に映し出されるラップランドの暮らしの様子は、淋しく見えるなかに、ものすごい美しさが。目にするすべてが美しく愛おしく、そこに在ること自体が美しいんだって教えてもらえました。

私は自分の目にするすべては必ず美しいはずなのに、自身できちんと美しいと感じることができているのだろうか・・

私はきちんと今あるこの時を美しいと感じられているのだろうか。いや、きっとそんな気持ちを抱く以前に事象は移ろい過ぎてしまっているのではないだろうか。もしくは本来美しいはずのものを美しいと思えないくらい、その気持ちを覚えることさえ忘れてしまっているのかも。

私は何かを失いつつあるのではないだろうか。失いたくないという気持ちがそうさせたのか、この人の何かに触れていないといけないという思いに駆られて、このウルティマツーレを手にしたのでした。

チィも何かを感じ取ってくれただろうか。